他責と自責の境界
他責とか自責とかよくいうけど、最近、よくわからなくなってきた。
「どっちかの責任」っていう二元論自体が、すごく危うく感じるようになってきたからだ。
正直言って、自分は愚痴が多い。
愚痴ってものは、大半が、自分を取り巻く環境について、何か満たされない想いを発露したものだ。
「AはBすればいいのに。。。」
この後に続く言葉が、
「誰々がやってくれない/何々が邪魔になってる」
なのか
「それを、自分の力では変えられなくてもどかしい」
なのか。
自責と他責の境界って、その程度。
時に、どっちも事実だったりするわけで、事実を語っただけで、「あいつはすぐ周りのせいにする」とか「あいつは自分を責めすぎて鬱っぽい」とか「あいつは絶対周りのせいにしないからエラい」とか、なんか不毛な議論に思えてくる。
自分が引き起こしたことを他人のせいにするのは、自責他責じゃなくて、ただの「責任転嫁」なので、それを批判して「人のせいするな」っていうのはいいとは思うんだけど、そうじゃない文脈で、なんでもかんでも「それは自分のせい」って、なんか違う。
なんでもかんでも「自責」にすることの裏に、「(何かが)上手く行かなかった」>「ホントは自分はそれをうまくやれるんだ」という意識が潜んでいて、それが時に、根拠のまるで無い躁的楽観論だったり、あるいは、傲慢な全能感みたいなものだったりする。
くどい表現になってしまったので、平易に言い直すと
「自己責任厨って<オレはその気になればなんだってできるぜ、うぇーい!>って感じがして、なんかヤダ」
って話。
また、自己責任厨が直接その問題に関わってない時に自己責任論振りかざす場合、往々にして「自分の責任じゃねーし、おめーのせいだろ」っていう押し付け、犯人探しみたいなモードになってて、それがすでに「あらゆる事象っは自己責任」っていう自己責任教の教義を踏み外してるよな。
「そこは、そこに関わらなかった、関わって良い結末を生み出せなかったオレに責任がある」って言ってみやがれ。